■本日は日本体育大学体操競技部の指導後ということで、お疲れのところありがとうございます。まずは、母校での後輩たちへの指導内容をお聞かせください。
信田)週1回ほどの約50分間のダンスレッスンを中心にコレオグラフィ(振り付け)などを行っています。
私の学生時代も、バレエレッスン、ジャズダンスレッスンなどがあり、競技には必要不可欠な技能として位置づけられていました。特にバレエの基本的なポジションなどは大切です。本来女子の体操競技にはゆか、平均台といった女性らしい動きやバレエやダンス的な要素が多いのですが、最近は技・技・技と技の習得に追われて、実は体操競技の基本技能でもある姿勢や四肢の使い方を習得できるバレエやダンスレッスンがおろそかになっていると感じます。
私が担当するダンスレッスンでは、私の指導力が未熟なこともありますが、ダンス自体を楽しもうという姿勢と本当に基本的な指導を心がけていますが、最近、動きのカウントが取れない選手が多くいます。ゆかの振りの中で、ワン・ツウ・スリー・・・エイトとカウントを取りながら振りを作っていきますが、そのカウントに動きが合わない。カウントや音を聞いている?という感じで、中にはカウントを無視して次の技に入ったりしてしまう選手もいます。以前の選手は、表現力を大切にしていましたが、最近のルールなども影響し、音を聞きながら振り付けの動きを表現できていないようです。
「カウントを取りながら、曲の音を聴きながら動いてゆくのよ」ということから教えています。
■レッスンでは、いろいろと工夫されている点も多いと思います。
信田)50分間のレッスン時間の中で、できるだけ飽きのこないように工夫していますが、振りを付けるときに、まずダンス的なステップがありますが、素人レベルでもできるようなステップを踏めない選手もいたりしますので、基本だけで終わってしまうことも多いです。
何回か、太陽とシスコムーンのころの振りを担当パート毎にやってみようとゆうことになり、試してみました。選手たちはプロのダンサーでもないので、説明だけで時間がとられてしまい大変でしたが、みな テレビでみるようなダンサーの気分を味わえたと面白がってやっていました。
■大学生になると、技のみでは高校生に劣るようにもなってくると思います。そこで、表現力といった要素が重要になってくると思いますが。
信田)振り付けだけでのことではないのですが、競技生活でも、大学生になって、自分自身で考えて練習しなければならないことも出てきますし、自我も強くなって、自分自身に理由付けができてしまう。学年も2年、3年となるにつれて、周りの言葉に耳を傾けられなくなっていく。大学を卒業すると、また、人間が成長し、吸収力も増すのですが、大学生のうちはまだそこまで、余裕もないのでしょう。女子の体操競技は低年齢化で、他の競技のように大学生で花が開くということもまれですし、難しいですよね。私も経験があります。
■そうですか。次に、現在は、マルチな活動を行っていらっしゃいますが、どのようなお仕事や活動をされていますか。
信田)タレント活動、スポーツキャスター、トークショーなどです。趣味のなかで、ライブ活動もしています。業界の人しかこないような感じです。笑い)
でも、これからは体操界に恩返しとか、少しでもお役にはたちたいと思っています。
■太陽とシスコムーンのメンバーとは、一緒にもう仕事などしないのですか?
信田)基本的にはもうないです。声がかかるとすれば、私はスポーツ関係からですし、民謡の家元の子はそちらですし、台湾で活動している子もいますし。
■それにしてもオリコン4位はすごかったですね。スポーツ選手でしかもオリンピック選手ですもんね。芸能関係はなんで日体関係が多いのですかね。体操関係以外でも多いですよね。日本体育大学芸能学部があってもおかしくない。笑い)
信田)日体には、そうゆう人が集まってくるのではないですか。私もその一人ですが。ようしオリコン1位目指すか!笑い)
■さて、そろそろ本題の、信田選手のいままでの体操競技選手としての歩みを聞かせてください。まず、体操をはじめた年ときっかけなどを聞かせてください。
信田)体操をはじめたのは4歳です。きっかけは健康のためらしいです。母がバレエを習したかったらしいのですが、当時、近所にバレエの教室がなくて、とりあえずバレエ教室がみつかるまで、近所の幼稚園の体操教室に通うことになりました。そしたら、ずーとバレエ教室が見つからなくて。笑い)
そして、小学校3年生くらいの時に、朝日生命体操クラブの森尾麻衣子(現佐藤さん)さんが活躍していて、それで母が、体操が強くなれるけれど朝日生命体操クラブに行く?と私に質問したのです。その頃は、引っ込みがちで人にNOと言えない性格で、「うん」と言ってしまったのです。そして、朝日生命体操クラブの専門コースの門をたたいたのですけれど、実績も何もない私は、一般教室に入ってくださいということになり。笑い)半年ほど一般コースに通っているうちに、親が塚原先生に呼ばれ、「お子さんをオリンピック選手に育てようと思うのですがどうでしょうか」となったのです。脚だけ強かったのです。なぜか以前の幼稚園の体操教室から跳び箱で、ツカハラとびだけできちゃっていて。その割には、専門コースに入ってはじめて段違い平行棒とかを見たもので、全然だめで。何でバーが2本あるのだろうとか。脚力だけが先生に認められていたらしいです。笑い)
■選手としてトップをめざすようになった時期やエピソードは?
信田)はじめは、私自身はぜんぜん、トップ選手やオリンピックを目指すとか考えていませんでしたね。とにかく体操が楽しかった。「あー楽しいなー」と。そうしたらたまたま、ジュニアの小学生で優勝しちゃったり。でも、チャンピオンとかそういう自負もなかったですね。
そして小学6年生のときに、全日本選手権に出させてもらったら、最終日までトップで、周りに騒がれだしてもまだ、何も実感がなく。結局2番だったのですけど、周りの方が騒ぎ出して、「何でなんだろ」と思っていました。
■中学2年生・3年生で全日本選手権個人総合2連覇。若くして日本体操界の頂点にたちましたが、当時の体操競技への思いや目標にしていた選手を聞かせてください。
信田)そうですね。気づいたら、全日本チャンピオンになっていたという感じが強いですね。
そして、中学生3年生の時にロッテルダム世界選手権に出場したくて、がんばろうかと思うようになったのです。目標にしていた選手はいなかったです。というか、今までの人生で目標にした人がいないのです。気づいたら、体操をしていて、専門コースにいて、全日本に出て、NHK杯で優勝してという感じでしたので。成績だけが出てしまい、自分は何も変わってないのに、自分への周りの対応が変わるのだなーと、人って有名な人にはちやほやしだすのだな。私はそういう大人にはならないように、全ての人に同じように接しようと、すでに小学6年生の時に考えてしまっていました。
■信田さんの言う頑張るっていうのは、たぶん、私たち普通の人が頑張ろうと思うのとは、程度が全然違うのでしょうね。そして、いよいよロッテルダム世界選手権です。
信田)魔のロッテルダム大会ですよね。跳馬のロンダート入りでやってしまいました。早朝のお茶の間を賑わわせてしまいましたよね。ロンダートで、足が踏み切り板を踏み外したらしいのですが、あまりの速さに何がなんだか分からなかったのですが。あれすごいんですよ、空中でね。今私の身体はどこなのだろうって。ここで1回捻ってしまえば感覚的にできそうだけど、でもうっかり捻って着地で膝をやったらまずいとか、それなら、ようし、このままいようと一瞬で全部考えて決めて、「わー、どすん、イテテ、アー大丈夫だった」という感じでした。
■世界選手権に出場して、心の中で変化はありましたか。
信田)ようやく自覚が目覚めてきましたね。ちょっと遅いですが。 世界選手権の団体戦はソールオリンピックの予選でもありましたし、子供ながらに、オリンピックに行けなくなったら私たちの責任だなと、しっかりしなくてはと、団体戦のことしか考えていませんでした。私の性格からか、周りからは、やる気があまりないように見られる部分はあったと思いますが。当時取材を受けていてもきっと、マスコミ受けはよくなかったのではと。笑い)
■85年・87年と国際ジュニア体操競技大会にて、個人総合2位・3位と、ボギンスカヤ選手やシリバス選手と競演されましたが、世界のトップ選手の印象は?
信田)すごくいい選手という印象でした。技もしっかりやっていて。ドブレも印象に残っています。きっと、オリンピックでも活躍するのだろうって。でも私、感動がないっていうか、子供のときは、結構冷めていて、素直にすごいなーとは思っていましたが、私は私なのだからというところはありました。
■そして、88年ソウルオリンピック代表として出場。それまでの代表選考会でも優秀な成績で通過しましたが、いくら冷めている信田さんでも、実際、オリンピック代表を争う選考会はかなりのプレッシャーもあったのでは。
信田) そのとおりです。当時のルールや競技力から考えて、私や真田さんクラスなら1度くらいの大過失なら十分通過するのですが、全日本チャンピオンとしての自分自身との戦いがありました。1位通過が私自身に課したものでした。チャンピオンとしての意地や立場が生まれてきていました。
■そして、ソウルオリンピック。思い出やエピソードを聞かせてください。
信田) 採点競技の厳しさを実感しました。特に団体戦では12位と低迷しましたが、なかなか得点が出してもらえず、改めて採点競技なのだなーと。それでも勝つ国はいるのですが、子供ながらに駆け引きみたいな現実を感じました。
■選手村ではどうでした。
信田) 選手村でも、スケジュールに追われて自由な時間もほとんどなく、体操チームで食事に行くくらいでした。今になって、当時のソウルオリンピックに出場していたバドミントンの陣内さんやシンクロの小谷さんと選手村のお話をするのですが、体操チームが来るとカルガモ一家が来たと言われていたそうです。笑い)
■信田選手の最大の栄誉は、89年シュツットガルト大会での、種目別平均台に進んだことだと思います。種目別決勝に進んだ女子代表選手は、それ以来いないのですから。
信田)でも、当時は、種目別に残ったうれしさよりも、種目別決勝には出たくなくて泣いた記憶があります。それまで、団体・個人総合と順調に演技してきていましたが、そうとう心身ともに疲労していたので、種目別決勝で果たして納得できる演技ができるか心配でした。
この大会では、規定演技が変わったこともあり、平均台でも失敗する選手が多かったのも幸いしていましたが、まさか、残れているとは考えもしていませんでした。
■91年 日本体育大学に入学しました。
信田) もう体操をやめようと思っていましたから大学に入学するつもりもなかっとのですが、親から「今度は楽しむ体操でいいよ。」と半分騙されたように日本体育大学の合宿所に入っていました。入ってから、やっぱり騙されていたと。笑い)
■大学1・2年でのスランプを脱して、3年時には1993年には全日本インカレで、個人総合チャンピオンとして復活されました。それまで、スランプを脱出するためには、いろいろなご苦労があったと思います。
信田) 1年生の時は、まだ、朝日生命時の貯金で体操できていて、ユニバーにも出場できましたが、2年時には、体重も増え、自分の身体がコントロールできなくなり、演技への恐怖感が増し、そこから恐怖症というか、本当に体操するのが怖くなった時期がありました。後方ブリッジでさえ頭が真っ白になるくらいでした。特に跳馬が。現監督の大野コーチにはご面倒をかけていました。全日本で跳馬では駆け抜けてしまい、あー私の体操人生も終わったと落ち込みました。
日体大もやめようと、親とも相談していました。大学の授業にも出席しなくなっていましたが、ある教職科目の助手さんから、このままでは教職の単位がとれず教育実習にも行けなくなると言われましたが、「もう大学をやめようと考えている」と相談すると、何日にもわたり親身になって説得していただきました。そこで最終的に、3年生のユニバー選考で通過しなかったらやめるということになりました。たぶん自分の中でも、まだ体操を続けたいのだろうな。続ける運命なのだろうなとも感じていました。そのユニバー予選で2位通過でき、インカレでも個人総合優勝とチャンピオンになることができました。最後まで恐怖症は続きましたけれど。
■そして、ユニバーシアード団体銅メダルと活躍しましたね。
信田) この大会では、腰痛がひどく、個人総合・種目別を欠場しました。UPできないほどの痛みで、分離症でした。自分が信用できないほどの痛みでした。どうやら生まれつき分離症の傾向があったようでした。くっついていたものが再発したようでした。
■4年時には、日本体育大学女子主将として、全日本インカレ団体優勝5連覇を導かれました。主将になられてそれまでとは、立場も変わったと思います。
信田)4年生で主将となり、4年生の皆で引っ張っていく中で、練習に集中できる環境を大切に、自分がしっかりしなければという責任感が強かったです。また、朝日生命時代からライバルで友人であった京ちゃん(瀬尾さん)と二人で頑張りました。
インカレでは、「みんなで勝つんだ!」と臨みました。平均台ではチームが苦戦していましたが、「私にまかせなさい。絶対に落ちないから大丈夫!」と。
■卒業後、福島県国体では、福島県代表として、同期の瀬尾京子さんや滝野有貴子さん(旧姓 瓦本さん)と団体メンバーとして優勝。社会人になって体操を楽しまれている姿が印象的でした。
信田) ええ、小学校6年からの付き合いがある京ちゃんや、美人で少し天然のゆっこといっしょに、「本番で力を出し切れるかという挑戦心」を持って国体に臨みました。恐怖症も、京ちゃんがいけるよと言えば出来るような気がしたし、京ちゃんは学年の誇りでもあるし、ゆっことともに信頼のできる仲間でした。優勝できて本当にこれまでお世話になった方々に感謝しました。
私も京ちゃんもゆっこも3人ともに、この国体で体操競技者として引退と決めていました。国体が終わったとき、ゆっこは当然泣いていましたが、以外にもクールな京ちゃんも泣いていました。
私ですか?、「未練なし!」晴れ晴れとしていました。笑い)
■昨年(2004年)のアテネオリンピックでの男子団体チームの金メダルを見ていて、信田さんも金メダルがほしくなったとも聞いていますが。
信田)そうなのです。すごくほしいのです。笑い)今の日本女子選手では、メダルは無理だと言われていますよね。そう言われるのは、体操のOGとして、淋しいですし悔しいですよね。
ようやくこの歳になって、努力の仕方、頑張り方が分かってきたのです。身体的にはもう無理なのは分かっているのですが、今の本当にメダルがほしいという気持ちで、チャンレンジしたらどうなのだろう。もう一度、トライできたらと思うのです。1種目だけならなんとかなんてと思います。社会人大会チャレンジしようかな。笑い)
■そうですよね。海外の選手では、チュソビチナ選手やホルキナ選手など長年国際舞台で活躍するような選手もいましたし、日本でも精神的に成長できる年齢まで体操が続けられる環境や指導体制が望まれると思います。今日は忙しいところありがとうございました。
信田)ありがとうございました。
■信田美帆さんのホームページ
http://www.geocities.jp/shinoda518/
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信田美帆さんプロフィール2
■体操競技の国内大会の成績
1985・86 全国中学校体育大会 体操競技個人総合優勝
1985・87 全日本ジュニア体操競技選手権大会個人総合優勝
1988・89 全国高校総体 個人総合優勝
1985・87・88 NHK杯優勝
1986・87 全日本体操競技選手権大会 個人総合優勝
1993 全日本インカレ個人総合優勝
1995 福島国体 団体優勝
■体操競技の国際大会の成績
1985 国際ジュニア大会 個人総合2位
1987 国際ジュニア大会 個人総合3位
1987 世界体操競技選手ロッテルダム大会 団体9位 個人総合35位
1988 ソウルオリンピック日本代表 団体総合12位、個人総合34位
1989 世界体操競技選手シュツットガルト大会 団体11位 個人総合15位
種目別決勝平均台8位
1993 ユニバーシアード大会団体3位
■芸能活動
1995年、読売ジャイアンツファイヤーガールズ。1997年、つんくプロデュースのユニット「太陽とシスコムーン」に参加。その後「T&Cボンバー」に改名。ユニット解散後、タレント、スポーツキャスター、体操のインストラクターとして活躍。
■CD(太陽とシスコムーン,T&Cボンバーとして)
月と太陽(オリコン4位)・ガタメキラ ・宇宙でLaTaTa ・Everyday Everywhere ・Magic of Love ・丸い太陽 〜winter ver.〜・DON'T STOP 恋愛中 ・HEY!真昼の蜃気楼
■アルバム
TAIYO&CISCOMOON 1 ・「2nd STAGE」
■ビデオ
「CONCERT TOUR 2000 YO!YO!Taiyo-La!むうんさんのダンス天国」
■テレビジョン
SUN系 「こだわりKinkiどっとこむ!」(情報番組) 02年4月〜レギュラー
TBS系 「i-sports」(BS−i) 01年3月〜準レギュラー
CX系 「人にやさしく」スポーツショップ店員ヒロミ役
TBS系 アテネオリンピックコメンテーター
■MOVIE銀河映像 「女囚K」準主役 森山 櫂 役 監督:福岡芳穂
■信田美帆さんのホームページ
http://www.geocities.jp/shinoda518/
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